豊田先生マスタークラス発表会

コンサートです
コンサートです

東京を離れ松本に来て、スズキ・メソード音楽院に入学してからもうすぐ19年になります。
当時の豊田先生はドイツから本帰国して2年目、スズキの会長を務め激務の中、毎日午後は音楽院生のために個人レッスンをほぼ5時間休みなく、厳しく温かく熱心にご指導してくださいました。
私はキリッと締まった澄んだ空気と、西にそびえる北アルプスの美しく雄々しい姿に、時に励まされ、時に漠然とした不安を感じながら過ごす中で、豊田先生のレッスンを受けられる喜びと、練習すればするほど上達していくような実感もあり、充実した日々そのものでした。

指導者になった今、何故いまヴァイオリン演奏の勉強を続けるのか。
そこには単に音楽が好きだとかヴァイオリンが好きだから、と言っただけの言葉では片付けられないほどの強い理由があるように今は感じています。
逆に言うと、バッハやベートーヴェンが遺してくれたような深遠な音楽とは無縁と思わされる時期を長く過ごした卒業後しばらくの間は、支部や地区の仕事を最優先し、たくさん生徒を指導してこそがスズキの指導者であるという環境下で、子育ても指導活動の妨げであるような罪悪感まで生まれてしまうような時期がありました。
スズキ指導者の仕事と家事育児の「共存」の難しさという高く分厚い壁を乗り越えた先にようやく、「演奏のための準備の時間=練習や研究」に立ち向かうことが出来る順序の生活なわけで、労力を費やしきった後に手に入れるわずかな自分の時間で音楽と対峙する権利をようやく手に入れる、というのが今の私の生活です。
私にとって「演奏」は、作曲家の音楽への敬意を最高位に持ちながら、何にも縛られない、ヴァイオリンを弾くことによってしか得られない、もしかしたら唯一の自由な自己表現手段なのです。だから上達しないことには何も表せない、伝えられないのです。そこからやっと自信を持って指導も出来るようになる、というように私の思考は成っているのだという自覚があります。自分が何者であるかを思い出すための時間だとも言えます。
心地よい耳障りの良い聴いたことがある曲ばかりを気楽に弾くだけであれば、私はもう勉強はしないし、もしかしたら練習もせずに本番に臨むかも。そんな演奏はしたくないし私のものではありません。
楽譜を読んだり、楽器を弾く時間が作れない時期が続いていく中、強く感じたのは弾けなくなる怖さよりも、分からないことへの不安と、なにより「勉強するのが好き」だということ。弾く勉強が叶わなくとも、書物や楽譜を通して学ぶことは出来ますが、それすらままならなかった時期を経て今、レッスンを受けている時間がとても幸せです。生徒を指導しながらその生命力に触れ、幸せを感じさせてもらえるのと同様に、音のお稽古で心を整え、音楽を通して感性が磨かれていく時間を持てることがとても幸せです。

今日演奏するサン=サーンス。
冒頭の二音はエレガントなため息…
お洒落の範囲内でテンポは揺れて…
超絶技巧はフランス人のジョークみたいなもので…

豊田先生からいただきましたご指導の一端です。

「でもー、そんなエスプリ、今の私の生活の何処に生じうるのか」と思ってしまいましたが、サン=サーンスの音楽と対峙するからこそ接触可能になったエスプリだと思えば、天から降りてくるまでこちらは努力を続けるのみだと思えるわけです。

松本の澄んだ空気と美しい景色から受け取る感覚は今でも変わりませんが、生徒の指導と子育ての経験を持つことで、松本の地で自分がスズキをする意義を見出そうと前向きな心待ちが生まれました。この変化も、現在の私を奮い立たせてくれます。
あともう一つ、特に最近意識していることがあります。
それは、私の演奏を通して、子育てで自分自身の何かが足踏みをしているように感じている人達を励ますことや、何かしら刺激を受けるキッカケになるのであれば、こんなに嬉しいことはありません。